このページでは、2012年の会報 No.39 の記事からピックアップ。
─藤尾先生 ご卒業おめでとうございます!!─
今年3月にドミニコ学園小学校をご退職された藤雄先生にインタビューをさせていただきました。今回の同窓生の集いにはご夫婦揃ってご参加いただきました。
ドミニコ学園に赴任した当時の印象というか、環境は何とも言えない思い出ですね。初めてシスターに出会い、職員室の私の机両サイドと前の机には、メール・マリア・ヴェロニカ、メール・マリア・アンジェリカ、メール・マリア・エメレンシアナに囲まれ、何たる居心地の良さ、、とは言えませんが(笑)緊張の日々でした。
でも、居心地の良さというのは本当で、主任のメール・マリア・ヴェロニカが「外」関係の事柄を一手に背負っていただいていたので、そのお陰で私達同期は7名いたのですが、のびのびやらせていただけました。未だ未だ寺小屋の要素がたっぷりで、職員室も小学校と中高が一緒という良い時代でもありましたが、それぞれ独立してドミニコならではの良い小学校、中高を築き上げようとしていたと思います。同期の金子先生(書道)から公立との違いなどを教えていただき、職員みんな「こうしていきたい!」という夢がいっぱいのファミリー的な環境の中で教員生活を楽しくスタートできたんだと思います。
修学旅行も裏磐梯に出かけていた頃で、校内キャンプという試みも始まり、渋谷教会のボーイスカウトが手伝ってくれたり協力隊の中で少しずつ大きくなっていきました。
そんな時に、中高のテニス部顧問のお話をいただき、10年間にわたり、また中高の生徒に接する機会ができました。ここでも自由にのびのびとやらせていただいたことに感謝しています。その後、スキーの指導員資格をとるため、夏休みはカナダ、アメリカにホームステイに訪れることを10年、そのうちに土日は各地に出かけ、生徒募集を行ったり、新校舎の時には建設委員ということで、戸田建設を打合せの日々などなど、懐かしい思い出ばかりです。
42年間かけてようやくドミニコ学園を卒業することができました。今は4時半に起床して、またテニスやツーリングなどをはじめ、これからまた新しい私のスタートでしょうか。
藤雄 比佐夫
同窓会会報 No.39(2012)より
─卒業50周年にあたって─
小3回生 中村 俊治
聖ドミニコ学園小学校を卒業して50年。昭和37年当時の卒業アルバムを眺めてみると当時の出来事が走馬灯の様に思い出されます。
正に、映画「三丁目の夕日」と同じ時代であった当時の日本は、貧しくも発展途上中で大変活気に満ちておりました。
そんな昭和31年の入学当初、全校生徒は50人にも満たず校舎も無かったため修道院で授業を行っていました。イメージするならば、山間の分校のような規模の学校です。授業内容も公立小学校では異例の「宗教」「仏語」「英語」の授業があり、男性の先生は一人もいらっしゃいませんでした。
中学に進学したある日、学友から「中村は変わった学校に通っていたんだな。」と言われましたが、自身が通っていた学校が基準となっていたので変わっているなんて言われる事の方が驚きでした。
私の両親はキリスト教にも海外生活にも縁はありませんでしたので、何故私を聖ドミニコ学園に入学させたのか未だにわかりませんが、私の娘が学齢に達した時、迷わず同校に入学させたのは事実です。それ以外の選択肢は無かったように思います。その娘も今では結婚いたしておりますが、将来孫が出来た時には是非とも聖ドミニコ学園に入学して貰いたいと思っております。
3年程前、小学校同窓会会長の松本秀夫さん、娘の担任をしていただいた山崎先生からお声がかかり、同窓会に「男子の会」を作ろうということになりました。卒業生の内、男子は2割にも満たないとは思いますが、その存在感を示せるようお手伝いをさせて頂こうと思っております。
最後に、聖ドミニコ学園とのご縁に感謝しつつ、今後も沢山の子供たちが同校で多くを学び、良い思い出を作り、成長していけるようお祈り申し上げます。
同窓会会報 No.39(2012)より
─長岡先生 ありがとうございました!─
平成23年10月12日、長岡忠校長が帰天されました。その直前にその時を悟られていらっしゃったのか先生は受洗され、洗礼名を「ドミニコ」とされました。ご葬儀はご家族で密葬で行われ、24日に「お別れの会」が学園で行われました。
毎朝、昇降口で遅刻寸前の生徒に「喝」を入れてくださり、時にはお一人で雪かきをして生徒達の足下を気にして下さり、担任の先生として、日本史の先生として、バレー部の顧問として、そして校長先生として、ご自分に厳しく、私達にも厳しく、しかしとても暖かい長岡先生でした。
ご冥福をお祈り申し上げます。